ロヒンギャ難民キャンプ 2:未登録キャンプの様子 (バングラデシュ)

皆さま、こんにちは。安希です。

『ロヒンギャ難民キャンプから』の続きです。
今回は、未登録キャンプの様子をお伝えします。

■ この先ずっと、ここで生きろと言われたとしたら・・・

現地を案内してくれた青年の話によれば、バングラデシュには2つの登録キャンプと2つの未登録キャンプがあるそうで、この日訪れたキャンプは、未登録キャンプでした。
拠点にしていたチッタゴンから、コックスバザール、ウキアとバスを乗り継いで、CNG(オートリキシャ)で周辺まで行ってから、最後はリキシャ(人力三輪車)で幹線道路を南下しながらキャンプを探しました。

しばらく走っていると、台風で崩壊した後のビニールハウスというか、ゴミ袋の集積地というか、そんな雰囲気の一帯が視界に入ってきました。人が住むような環境だとは思わなかったし、こんな場所に住んでいて欲しくないという潜在意識から、ここは放棄された村か何かで、きっとキャンプは、もっとちゃんとしたところにあるはずだと思いたかったのですが、青年が「たぶんこの辺だと思う」と言ってリキシャを降りたのは、まさにそんな一帯へと続く崩れかけた小道の前でした。

キャンプの状態:

 

 

 

このキャンプは2006年に作られたそうですが、キャンプでの難民生活が10年近くになる人たちも多く、キャンプで生まれ育つ子どもたちもたくさんいます。この環境で10年、20年、あるいは一生暮らせと言われたら・・・、しかもどの国からも「うちの国民じゃない」と拒絶されたら・・・、どういうことに生きる希望を見出せばいいのだろうか、と思ってしまいます。

■ アブドゥル・ハフェスさん 35歳、男性

9年前にミャンマーから逃れてきた難民の一人で、2006年に出来たこのキャンプの古株です。ミャンマーにいた頃は、小売店を営んでいたそうですが、イスラム教徒であることを原因に迫害を受け、バングラデシュに逃げました。

両親、妻、息子の5人で、ボートに乗り込んでナフ河を渡り、対岸に逃れた。2人の兄たちはミャンマーに留まったそうですが、その後、ボートで脱出した兄の1人がマレーシアに行きついて捕まり、今はマレーシアの監獄に収容されているとのことです。とは言っても、お兄さんと直接連絡がとれるわけではないので、「兄が捕まった」という情報は、収容を免れた他の難民から伝え聞いた、と。
現在は、バングラデシュの難民キャンプでできた2人の子どもを含む3人の子どもを育てているそうですが、未登録キャンプでは教育を受ける機会もなく、「バーに住んでるみたいな環境だ」と話されていました。

「1942年までは安定して暮らしていたが、軍事政権がロヒンギャを次第に迫害するようになり、我々をあたかも『不法滞在している外国人』のように扱うようになった。国民と認めてもらえず、パスポートや身分証ももらえませんでした」
「難民である自分たちを受け入れてくれたバングラデシュ政府には、感謝しています。暮しは貧しいですが、安全な住処を提供してくれています」
彼が言う「安全な住処」というのが、上の写真にある住処なわけですが、もしバングラデシュ政府が受け入れを拒否していたら、彼らには本当に行く場所がなかったわけですから、これでも寛大な措置のうちに入るということです。本当に厳しい状況に置かれていると思います。
「国際社会に期待することは、ミャンマー政府に圧力をかけることです。ロヒンギャを国民として認めるよう外圧をかけてください」

■ 仕立て屋の女性

20年前にミャンマーで結婚し、夫は米屋を営んでいたそうですが、9年前に身の危険を感じて、まず夫だけバングラデシュに逃れました。彼女はミャンマーに子どもたちと留まりました。夫はバングラデシュで2人目の妻と結婚しましたが、その後もミャンマーにいる彼女に6年間仕送りを続けたそうです。主に、バングラデシュの山林での肉体労働で稼いだお金だそうです。
それぞれ、ミャンマーとバングラデシュで暮らしていた彼女たちでしたが、2012年、政府の後ろ盾を受けた仏教系民族とロヒンギャの間で大きな衝突が起こり、身の危険を感じたため、バングラデシュに脱出。子どもと彼女の3人分の逃亡費として、ボートには36000チャット(3600円)を支払った。当時暮らしていたミャンマーの不動産も半値以下の叩き売り状態で逃げてきた、と。

「2012年に、仏教系のコミュニティから襲撃を受けました。家を焼かれ、捕らえられて拷問を受けたり、多くの女性がレイプ被害に遭いました。殺される危険があったので、逃げました」

3年前(2015年当時)にキャンプに来た彼女は、子どものころに習った技術を活かして、テーラーの仕事をしていますが、仕事とは言っても、キャンプ内でかろうじて食いつないでいる程度です。
これまでに9人の子を出産したが、うち4人は亡くなっていて、ミャンマーで産まれた子どもは出産から2日後に亡くなったそうです。

■ モハメド・マヤスさん 18歳 男性

仕立て屋の女性の従兄弟にあたる18歳の青年にも話を聞くことができました。彼は今、バングラデシュのほぼ南端に位置するテクナフという街で働き、サウジアラビアに行くためのお金を貯めているそうです。成人してから逃れてきた人がミャンマーに帰りたいと話す一方で、難民キャンプで成長した若者たちが、ミャンマーやバングラデシュ以外の国で生きていこうとしている点が興味深かったです。この点については、次回もう少し詳しく説明します。

ミャンマーのような政府からの迫害がないとは言え、世界最貧国の一つであるバングラデシュの未登録キャンプで難民生活をずっと続けていても、そこには希望がありません。だから若い人たちは、ミャンマーにもバングラデシュにも見切りをつけて、インドやマレーシア、そしてとくにサウジアラビアに逃れるとこで道を切り開きたいと思っているようです。

ただ、問題は彼らにはパスポートがないということ。そこで、ミャンマーにいる親戚に頼んで、ミャンマーから逃れた難民であることを証明し、難民申請をしたり、ブローカーを通してバングラデシュのパスポートを手に入れたりする必要があるわけです。それにはお金がかかるので、テクナフで働いてお金を貯めている、ということです。18歳の健康な男性ですから、肉体労働者としての需要はあると思いますが、バングラデシュの最底辺で働き、費用を工面するというのは容易なことではありません。

■ ナシマ・カトゥンさん 女性 

8年前に家族10人でバングラデシュに逃れたが、難民キャンプに来たあと、高齢の2人が亡くなったそうです。彼女のお宅には、女性が5〜6名と男性数名が出入りしていて、いろいろな方からミャンマーにいた頃のことを聞かせてもらいました。

「ミャンマーの警察が夜中に捕まえに来て、拷問を受けました。ずっと眠らせてくれず、眠ってしまうと罰金を払わされました。その後、無償の仕事をさせられて、最後は金を払って解放してもらいました」

「ここバングラデシュでは、私たちは自由にチッタゴンやダッカに行くことができます。でもミャンマーでは2キロごとにチェックポストがあって、首都ヤンゴンにも行くことは許されていませんでした。ミャンマー国内を移動するときは、行き先(受け入れ先)の了承をもらい、行政の許可を取り、決められた日数内で移動する必要がありました。もし日数内に帰ってこれなかった場合は罰金です」

「ミャンマーでは、ロヒンギャの村には電気もテレビもありませんでした。携帯電話の所持も認められていなかったので、バングラデシュから持ち込んだ携帯を村で1台だけ隠し持ち、連絡をとる必要がある人は、村の丘に登って電波をキャッチして電話をしていました。電話をしている間は、警察が来ないかを仲間が見張る必要があります。バッテリーは、バッテリーボックスを使ってチャージしていました」

「ミャンマーの状況が良くなれば、全員でミャンマーに帰りたいです。帰る時には、市民権と選挙権を約束して欲しいです。ミャンマーの政治が変るまで、バングラデシュのキャンプで暮らしながら、みんなでその日を待ちます」

「キャンプ内は平和で、みんな仲良く暮らしています。ただ、最近は夜になると、バングラデシュのギャングに襲われるので、早めにキャンプに戻るようにしています。窃盗団もいますし、女性の場合はレイプ被害があります。ただ、こうした被害については、基本的に口外しません。知れ渡るともっと起きる可能性があるからです」

■ 女性たちの声が拾えない・・・

キャンプ内では、主に男性(長老や一家の主など)にお話を伺う機会が多いのですが、今回は、訪れた先のお家で主が不在だったために、女性に対応してもらうということが数回ありました。ただ、その度に痛感したことがありました。女性の声を拾い上げる難しさです。

前出のナシマ・カトゥンさんと、その取り巻きの女性たちですが、ミャンマーで受けた拷問について、もう少し詳しいことを訊ねたところ、涙ぐんでしまいました。

「話せないようなことをされた」と。

「話せないような体験」が、どのような経験であるかぐらいは想像がつきます。この点について、私自身は(同じ女性として、またよく似た体験をしている人間として)彼女たちと話し合えることがあったと思うんですね。ただ、通訳をしてくれた青年も、村を案内してくれた人も、それから、いつの間にか私にくっついてきた取り巻きや野次馬たちも、全員が男性だったので、ずらーっと男性に囲まれた状況では、女同士、なかなか核心について話せない・・・というジレンマがありました。

これは、ナシマ・カトゥンさんのケースだけでなく、他の家庭を訪れた時も同じでした。他にも話をしてくれた女性がいたのですが、彼女は話をしている間中、ずっとスカーフで顔を覆い隠していて、小声で簡潔にしか答えないんです。最初、自分はよそ者の外人なので、嫌われているのかな?と思いました。話を聴いている間に、彼女が立っている背後の壁の向こうから、年頃の娘さんらしき人がこちらの様子を見ているのに気がついて、「娘さんのお話を聴かせていただけませんか?」と言ったのですが、「無理です」と。でも娘さんは、壁の向こうに隠れながら、私に向かって手を振ってきたりするわけです。「娘さんもこちらに来て、話に加わってはいかがですか?」と提案するのだけど、やっぱり「無理です」と。なんか、変な感じなんですよね。

しばらくそういう状態が続いたあと、試しにと思って、私は同行してくれていた男性陣(通訳を含む)に、席を外してもらいました。彼らがすっかりいなくなると、もう言葉は通じなくなります。ただ、その瞬間に、娘さんが壁の向こうから飛び出してきて、お母さんもさっとスカーフを外し、私の手を握りしめてきました。言葉は通じないですけど、いっぱい話しましたよ。状況的には奇妙かもしれませんが、こういう時って、いっぱい話してくれるんです。いろいろあったんだなーっていうのしか分からないけれど、いろいろあったことが分かるし、ぶっきらぼうだった最初の印象とは違って、向こうもこちらに親近感を持っていることがすごく伝わってきます。彼女たち、泣きますし、怒りますし、すごく笑います。オシャレして、カメラの前でポーズを決めたりする一面もあります。こういう彼女たちの姿、それは、ただ単に弱者や被害者だけではない彼女たちの姿をいつか伝えたいと思いました。公開できない写真、翻訳されない言葉だけしか、結局自分は持ち帰ってこられなかったという悔しさがあります。

もしあの時、女性の通訳が入っていたら、状況は全く違っていたかもしれません。男性たちの視点から語られる「こんなことが起きました」と、女性たちにとってのそれは、必ずしも同じではありません。これは、世界を旅しながらニュースを追っていると時々感じることです。女性のことも報道はされますが、男性社会から捉えた「女性たちの様子」になっているなと感じることもあります。レイプの話を、村の有力者(男性)の前で、男性の通訳を介して聴いていては、やっぱりダメなんじゃないか・・・と。

ナシマ・カトゥンさんの家では、窃盗団による性的暴行被害の話に加え、ドメスティックバイオレンスという言葉も少し出てきたりしましたが、すぐに消えてしまいました。レイプ被害は口外しない、ということですが、例えばドメスティックバイオレンスについて、何か対策はしていないのかと食い下がると、苦笑しつつも「していない」と。

「抵抗はしません。耐えます」

これ以上、話が前に進みませんでした・・。

このキャンプにたどり着くまでの過程でも、現地の学生、地域の有力者、活動家、ジャーナリスト(現地の新聞社が協力してくれました)、など、多くの方々の協力(道ばたなどでたまたま出会った)があって現場に入れているのですが、接触した人たちを振り返ってみると、9割以上が男性でした。イスラムという宗教柄もあるとは言え、次はもう少しなんとかしたいと思いました。

今回のトピックである「難民問題」からは少しズレてしまいましたが、彼女たちは、声なき難民の中で、さらに声が聴こえてこない存在なのではないかと思います。彼女たちは、二重の壁の向こうにいるような感じがしました。難民問題も、切り口はいろいろあるべきです。

次回『ロヒンギャ難民キャンプから③』では、登録済キャンプの様子をレポートします。

ではまた、ごきげんよう。

安希

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1件のコメント

  1. キャンプの様子がよく分かりました。

    持ち帰ったのは公開できる写真と翻訳された言葉だけだったというところに今回のレポートのすべてがあるように思います。しかし、それでも、このようなレポートはこれからもずっと続けてください。

    ムンバイがまだボンベイと呼ばれていた頃、空港近くで見た貧民街は人が住めるようなところ、住んでいるところ、とはとても思えないような地域でした。地面と家との区別が付かないような。

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