メディアに表出しているゲイが「おネエ」ばかりになってしまうのは何故か?

皆さま、こんにちは。

『ウートピ』に記事がでました。

前編:”おネエ系タレント”だけがゲイじゃない!”『リオとタケル』著者に聞く、日米のLGBT理解の現状と同性婚議論。

後編:愛は思い通りにいかないときこそ試される。『リオとタケル』著者が語る“深いパートナーシップ”。

この記事が出た直後に、FBを通じて質問をいただきました。お返事を書いている途中で、これは重要なポイントだと感じたのでブログでも紹介しておきます。

質問:
記事の中でも触れているが「メディアに表出しているゲイが「おネエ」ばかりになってしまう」のは何故なのか?

 

細かい理由を挙げていけば、たくさんあると思いますが、根底にあるのは「メディアを含む社会が、普通のゲイという存在を受け入れていないから」でしょうか。

特殊なキャラクター、身近ではないキャラでいてくれる間は、社会は彼らを笑いの対象として安心して消費できる。ゲイの側も、「面白キャラ」でいる間は、ゲイとしての素の自分を社会に晒さないですみます。だから今までは二通りのパターンがあった。

1、おネエのキャラをかぶった上でゲイを公表する。(あるいは「素がおネエのゲイ」だけが、ゲイとしてテレ
ビの前に立つ)

2、ゲイを隠した上で、おネエキャラではない素の自分としてテレビの前に立つ。

おネエでないゲイの人も、テレビの中には実はたくさんいます。ただ、彼らは自分がゲイだとは言いません。なぜならそのような「普通のゲイ」の存在を社会やメディアが求めていないことを知っているから。

男らしさや紳士であることが条件だったハリウッドでも、その傾向は顕著でした。ゲイのスターは、わざわざ有名女優と交際し、プレイボーイを私生活で演じることを求められていました。彼らはゲイでしたが、隠し続けない限り、ハリウッドの男性スターとして社会に受け入れてもらうことはできなかったわけです。

今年、水泳の金メダリストのイアン・ソープが、ゲイであることをカムアウトしました。数年前には、ラテンミュージック界の貴公子、リッキー・マーティンもしました。彼らはゲイでしたが、おネエになる代わりに、長年ヘテロセクシュアルの振りをしてテレビの前に立ち続けたわけです。イアン・ソープは隠し続けてきた訳を「世界はゲイの王者なんて求めていないと思ったから」と言っています。

ではなぜ社会は、おネエのゲイであれば受け入れてきたのか?

一つには、上にも書いた通り、距離感の問題があります。『面白キャラ=向こう側の人』である限り、観客は安心して彼らを受け入れられる。

それともう一つ、立場の弱いマイノリティーが社会に受け入れられていく初期のプロセスではよく「笑い者になる」という方法がとられます。例えば、アメリカの昔の映画には、「笑い者にされるマイノリティー」がよく登場します。出っ歯で瓶底眼鏡をかけた変な日系人のキャラや、いかにも思考能力がなさそうなアフリカ系アメリカ人、動物のように飛び回るだけの中国系アメリカ人など。

アメリカで演劇を勉強してきた自分自身も、このキャラクター、つまりステレオタイプの押し付けには違和感がありました。いつも「笑い者にされるキャラ」ばかりが「アジア人の自分」に回ってくるからです。でも、それを甘んじて受け入れる以外、私には舞台に立つチャンスがありませんでした。なぜなら、我々は社会の底辺にいたから。(舞台はまだいいですが、これが映画やテレビの世界になると、強烈なキャラクターの締め付けにあいます)

現在の日本でゲイの人が置かれている立場は、これに近いかもしれない。「普通の人」としての存在が、まだまだ受け入れられていない、ということでしょう。

 

注:男性による女装が、常に笑いの対象となってきた歴史(その逆、男装する女性で笑いはとれない)については、潜在的な男女間のジェンダー格差問題があるのですが、その議論は今日は割愛します。

ではまた、ごきげんよう。

安希

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3件のコメント

  1. 遅くなりましたが、「リオとタケル」読み終えました。精神的には、100%男性から、100%女性があって、その割合は連続的に変異していると考えた方が自分にはしっくりします。しかし、身体的には、雄か雌か(間性もありますが)1か0かで、非連続的に男女は分類されてしまっていて、そこに、悩む人たちがいるのではないかと感じます。日本では、まだまだ、非連続性な性の定義は受け入れられないでしょうね。

  2. まさしく、その通り。溜飲を下げる思いです。元々排他的な風土が近年更に加速し、格差社会がそれに拍車をかける恐れがある中、自分らしくあること、変わり者である自由、寛容さ、共存という言葉がヒップでクールであり続けますように。明治維新後の英国の帝国主義を模倣したマッチョイズムと、侍、大和魂を混同しませんように。春画や、混浴や、衆道が生活の中にあり、笑顔が絶えなかった日本人の本来の豊かな感性が見直されますように。

    1. 「侍」「大和魂」どちらにも反対します。

      日本は、中国や米国より、エライと思いたいから、そんな言葉を使うのでしょう。

      「日本人の本来の豊かな感性」なんて言い出すのが、そもそもダメ。

      「日本」ができあがったのは、せいぜい百年前で、それを威勢よくみせかけるために「大和魂」なんて捏造したわけでしょう。

      俺は「日本人」だから、すごいんだ、というマスターベーション。

      戦国時代の大名は、自分が朝鮮由来の家柄だと自慢してたわけです。
      彼らは「侍」とも「大和魂」とも無縁だった。

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