42.方法は違うけれど(ヴァラナシ)
汚い路上でゴミに埋もれて物を乞う人々。支援の手は差し伸べられてはいるけれど…

こんばんは。安希@ヒンズー教の聖地ヴァラナシからレポートしています。

ガンジス河に向かって並べられた数体の遺体とその周辺で凧揚げをする沢山の子供達をさっきまで眺めていました。
数千年前の伝統、文化、宗教儀式が現在も変わらず生活の中に生きている街です。不思議な場所ですね。

インドに来て10日以上が経ちました。月日の流れが極端に早い国です。
何か特別な事をしているわけでは無いのですが、見るものすべてのインパクトが強烈なので、ただ道を歩いたり、屋台でチャイを飲んでいるうちに時間が過ぎてしまいます。
そして、インドにいると、良い人も悪い人も、とにかく次から次へと話しかけてくるので、静かに息をついている暇が無いという状況。
とにかく好奇心が強いというか、世話好きというか、親切というか、暇人というか、なんなのでしょうかこの人達は?!

インドには極端な物や事例が沢山ありすぎて、何から手をつければよいのやら混乱してしまうのですが、今回はコルカタで考えた国際協力に関するトピックでいってみましょう。

コルカタはとても込み合った汚~い街です。街の汚さはコルカタに限ったことではないかもしれませんが、とにかく路上はトイレ&ゴミ箱のような状況で、その汚ったな~い路上で生活している人がかなり沢山います。
そうです、コルカタはマザーテレサで有名な、路上で人々が死んでいく街、そしてまた、貧困や生活苦や病気にあえぐ人々を助ける街としてシンボル的な場所にもなっているわけです。

沢山の旅行ガイドブックの中でも、マザーハウス(マザーテレサが患者の最後を看取るために立てた施設)は紹介されていて、コルカタに行ったら、数週間から数ヶ月マザーハウスでボランティア、というのがトラベラーにとって一つのアクティビティー化しているほどです。
実は私も日本離れる前に、機会があればマザーハウスでボランティアと考えておりました。そしてコルカタに着いた翌朝に偶然相部屋になったオーストラリア人の女性が午後からマザーハウスを見学に行くというので、付いて行きました。

マザーハウス自体は、小さいけれど小奇麗な施設で、最期の時を迎えた患者が苦しんでいる場所という感じでは無かったです。
確かに栄養不足の患者が多かったですが、介護の手が行き届いている印象でした。
そして、私が一番驚いたのが、そこで活動する世界各地からのボランティアの数の多さでした。
日本人も数名いらっしゃったと思います。キリスト教徒の非常に多い韓国からもかなりの人が来ている様子で、その他欧米系の老若男女を問わず、本当に沢山の人が働いていました。
ビックリ。さすがマザーテレサは有名ですねぇ。

基本的に午前中に食事などのお世話があって、午後は「お昼寝」の後、患者の手を握って話しかけたり、身体にオイルを塗ってあげたりというのが日常なのだそうです。
一応リハビリ施設も付いており、回復して退院し再び路上生活に戻っていく人もいるとのこと。
というこは、入院中の患者は、回復しないことを祈って日々を過ごしているのでしょうか・・・?

結論から言うと、私はマザーハウスでのボランティアはしませんでした。
同行したオーストラリア人の女性も同じく、ボランティア登録は行わずに宿に帰りました。
なぜかというと、ボランティア=報酬なしで、数週間もの間患者の身体にオイルを塗って話しかけるという行為にたいしてモチベーションが上がらなかったからです。
ボランティアをされている若いチリの女性に話をうかがったところ、彼女は介護が楽しいのだと話されていました。
介護をすることが大好き(LOVE)なので、現在はマザーハウスと別の施設を掛け持ちして、こうして毎日患者と対話しているのだと。
残念ながら、私には介護が大好きになるとも、介護を楽しめるとも思えなかったので、ボランティアは諦めました。

オーストラリア人の女性は、介護に対してはとても積極的でした。
彼女は私の母親ぐらいの年齢の方で、オーストラリアで教師をしていたけれど、何の興味も示さない冷めた子供達を相手に毎日授業することに疲れ、ならば自分が少しでも必要とされる場所へ行こうと決心し、単身インドへ渡ってきた女性です。
インドですでに6ヶ月ほど色々なボランティアに携わり、次の数ヶ月をマザーハウスで過ごそうとコルカタへやってきた女性です。
共同トイレのバケツの水がシャワー代わりという簡素な相部屋生活、という環境にも元気に耐えるすご~いおば様で、すっかり仲良くなりました。
彼女のやる気は買いでしょう!

しかし彼女もマザーハウスでのボランティアは諦め、我々はちょと暗い気持ちで宿へ戻りました。
理由は、マザーハウスは人手が十分足りており、わざわざ我々が登録しなくても、施設の運営は支障なく行われていく。
マザーハウスで働く若いニュージーランド人の男性は、風邪のため一日だけボランティアを休んだことがあるけれど、彼がいなければ他の人が代わりの仕事をするので、彼がいようがいまいがあまり関係が無いような気がしてきた…と悩んでおられました。
そして、すでに働いている大勢の外国人ボランティアの中へ入っていって、飽和状態の環境の中で自分の仕事を探し(ほとんどが患者との対話とオイル塗り)、他のボランティアと社交していくのがなんとなく面倒だったのですね、実は。。。

オーストラリア人の女性と私は、その後も国際協力やボランティアについて沢山のことを語りました。
そして、我々はマザーハウスの患者のためには何も出来ず、また私個人としては介護をするという気持ちにすら全くなれなかったという事実を受け止めた上で、では何か他に出来ることはないのか探していこうという話になりました。
オーストラリア人の女性は数日後には新しいボランティアを見つけ、現在は孤児院で働いておられます。
とは言え、その孤児院の管理体制がかなり理想とかけ離れている(統制管理というかスパルタというか)のために悩んでおられて、新に情報を得たバングラディッシュでの難民救助のボランティアに切り替えるかどうか考え中とのことです。
バングラディッシュは現在政治が不安定で治安が悪いので(そのために私はバングラ行きを断念した経緯があります)、彼女の身の安全が心配になってきますが、本人は「私はもう、一つ目の人生を十分に生きたので、第二の人生は納得の出来るボランティアをして、それで死ねるなら良い!」らしい。
私はまだ死ぬ気は無いです。

介護活動をすることも無く、マザーハウスから逃げてきた私は、これから少しずつ自分の方法を模索していかなければいけません。
私はオーストラリア人の女性とは違って、国際協力に一生を捧げるつもりもなく、普通の人生を送りながら生活のごく一部を支援協力に割く(もしかしたら割かないかもしれない)というスタンスになります。
私には、何ができるでのしょう?

マザーハウスの光景よりもインパクトが強かったのが、マザーハウス周辺の炉端で生活をする、今にも死にそうな無数の人々の存在です。
身体障害者も沢山いました。彼らは全員物乞いで生活しています。
そして、マザーハウスで回復した後、再び路上の生活に戻っていく人々について考えることは非常に多いですね。
路上生活者の数をいかにして減らしていくのか、それらは介護施設というミクロの援助と、また国際政治というマクロからの働きかけの両方から攻めていくべき問題ではないかと考えています。
私には一体、何が出来るのでしょうか?

街は汚く、莫大な人口の人が貧困層にあり、世界は混沌としていて、旅をすればするほど、「どうにもならんじゃろ」という空しい気持ちになってきます。
オーストラリア人の女性は、国際協力の旅を始めてみて、「支援したい」と考えている人々の多さと共に、その支援を妨害する障害の多さに唖然とするばかりだと話されていました。

例えば、インド人の中にも国内の貧困層を救おうとミクロの単位で動いている人はいます。
オーストラリア人の女性は、農村地帯で学校に行けず、子沢山のために物資がまるで足りていないような家庭を支援しているインド人女性としばらく行動を共にしていたそうですが、これがなかなか大変なのです。
例えば、キリスト教の寄付や名前で学校を建てたりすると、公立の学校を嫌う比較的裕福な家の子供が殺到してしまい、貧しい家庭の子供がまるで救えない。
従って学校を建てるなら、学校の教育水準や施設の状態をより悪く設定しておかないといけないわけです。おかしな話です。

また、一つの農村を助けると、他の農村が不平を言い始めて紛争の火種となったりする。
そして宗教的な問題も絡んでくるとかなりややこしいのだそうで、ヒンズー教にも存在する原理主義者が、教育施設の勝手な建設などに徹底的に反抗してくるため、支援している女性本人は原理主義団体からの殺人未遂にも何度もさらされているらしい。
貧しい農地にいる利発な子供に教育というチャンスを与えたいと思っても、それを実現するために宗教間紛争、地域間紛争、殺害危機?まで乗り越えないといけないとは大変な事です。

そんなことまでして、どうして人を助けなきゃならんのじゃ?と言いたくなりますね。

ベトナムで知り合ったカナダ人の男性で、2年間ルワンダで国際協力に携わったという人に会いましたが、彼も同じような事を話されていました。
現地の人々と話し合い、教育施設や浄水施設の整備を進めようと考えていたが、提供する側の考えと現地のニーズが全くかみ合わず、二年間ほぼ何の成果も上がらずに終わってしまったと苛立たしげに話していました。
現地の人々(村の長老達)が、「教育施設も浄水施設も要らない。勝手なものを作るのは止めて欲しい。ただ『金』だけ置いて帰れ。」の一点張りだったのだそうです。
ニーズが「お金」である以上、支援団体としては動きようがないですからね。
話し合いが2年間平行線を辿り、その間に子供達を集めて英語を少し教えたりしたことを除けば、何もしなかった、できなかった…と。

そんなことに、どうして2年間も費やさなきゃならんのじゃ?と思うのは当然でしょうね。

目の前にある貧困や物質の欠如という現実に心は動くけれど、それと同時に、「もう勝手にすればいい」という半ば諦めの気持ちも起こる。
これこそが、途上国での旅や活動に携わる人間が味わう感覚なのかもしれません。

私自身、この長い旅を終えたときに、国際支援に対してどんな感覚をもっているのか今は予測ができません。
目の前で倒れている物乞いにまるで心が動かなくなっているかも知れないし、また何か全く違うことを考えているかもしれません。
どうなるのでしょ~か?

汚い駅の汚い群衆に混じり、寝袋に包まって夜を明かすことがあります。
そんな夜の闇に移るのは、足や腕を失い、やせ細った人々が、木の枝で身体を支えながら、小さな缶を抱え、僅かな銭を求めて動き回る姿です。
そして古びた列車の中には、頼んでもいないのにほうきで床を掃き清める「勝手にお仕事をする子供達」の姿があります。

私には慈悲の精神はありません。
ただ時折腹が立ち、ポケットの小銭を障害を持つ今にも死にそうな人や飢えた子供に手渡し、さっさと目の前から去ってくれることを祈ることがあります。

私には、哀れみの精神も、慈悲の精神も無く、さらに付け加えるならば、貧乏バックパッカーのためにとてもケチです。
マザーハウスを逃げ出して理解できたことは、私には人を助けたいという気持ちなど微塵もないのだということかも知れないですね。
ただしそれと同時に、私の苛立ち(腹立たしさ)の対象がどこに向かっているのかもまた少しずつ分かってきたように思います。
私にとっては、この苛立ちこそが、行動を起こす唯一のモチベーションをなっていくような気がします。

人それぞれ、感じ方、考えたら、そして方法は違うけれど。。。

医療からどんどんとかけ離れて、私の「ボヤキ」レポートのようになってきましたねぇ。
インドは感染症の宝庫でもあるので、次は「インドの下痢特集」でもレポートしようかしら。
ネタは山ほどありますので…。でももう下痢の話も飽きました?
マトモそうな医療施設も見当たらないし、何をレポートすればよいのかしら?と思い悩みつつ、夜行列車に揺られる日々でございます。

インド、とにかく汚~いです。刺激的で面白く、楽しい国だけれど、やっぱり汚いです!!この国は!!

それではまた、ごきげんよう。

安希

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