『LGBT・紹介レポート』Week 2
〜アメリカLGBTの歴史(〜1950年代)〜

第2週目は、セクシュアルマイノリティに関係する1950年までの歴史です。

1610年
ヴァージニア植民地が、アメリカで最初のソドミー法を可決。犯則者には死刑を指示。

1869年
カール・マリア・ベンケルトによって初めて『ホモセクシュアリティ』という言葉が使われる。当時のドイツには、男性間の性行為を懲役刑とするプロシア刑法があり、ハンガリー人医師であったベンケルトは刑法の廃止を求めて活動した。

1891年
ルネサンス歴史学者であり、古代ギリシャ時代の同性愛を研究していたジョン・アディントン・シモンズが、私的に出版した『A Problem of Modern Ethics』の中で『ホモセクシュアル的本能』を取り上げる。これが『ホモセクシュアル』という言葉が英語で使われた初めての機会と考えられている。

1895年
ジークムント・フロイトが、人間発達の論理について執筆を開始。これが後に、ホモセクシュアリティとヘテロセクシュアリティに関する論文へと繋がる。同性愛と異性愛という概念が注目されたことにより、フロイトは大成功を手に入れると同時に、悪評にもさらされた。ホモセクシュアリティを『一連の行為』としか見なしていなかった古い常識を覆し、以降それは『個人の人格的特質』と考えられるようになった。それにより『ゲイのアイデンティティ』という新しい概念がもたらされ、今日のゲイカルチャー、ゲイコミュニティの基盤が作られた。ただし、マイナス面もあり、成人におけるホモセクシュアリティは、引き続き『変人』と見なされた。フロイトは、同性愛的行為を全ての人間の性的発達の過程における正常なこととする一方で、あくまでも異性愛への進化の過程としての正常性に限定した。

劇作家オスカー・ワイルドが、ソドミーとわいせつ行為の疑いで逮捕、起訴される。劇作家として絶頂期を迎えていたワイルドの傑作、『理想の夫』と『真面目が肝心』がロンドンで上演されている最中での逮捕劇だった。公判中のワイルドが雄弁に言い放った『あえて口にすることのできぬ愛』の潔白は、おそらくホモセクシュアリティに対する初めての公的弁護であったと考えられている。ワイルドが有罪判決を受けた夜、危機を感じた600人の男たちが、イギリスのドーバーからフランスのカレーへと逃れた。例によって、“男性”としてカウントされたのは60人だけだった。

1897年
ゲイのドイツ人医師、マグナス・ヒルシュフェルトが、『科学的人道委員会』を設立。ドイツのソドミー法廃止とゲイの人権擁護を訴えた最初の人権団体である。ヒルシュフェルトの試みは、ナチス政権の台頭によって失敗に終わった。しかし、彼がおこなったホモセクシュアリティに関する初期の研究と出版は、世論に影響を与えた。

1914年
『犯罪俗語辞典』がオレゴン州で出版され、男性同性愛者を指した侮蔑語として『faggot(ファゴット)』という単語が初めて印字された。

1915年
産院制限運動の提唱者、エマ・ゴールドマンが、全米各地でのスピーチを通して『ホモセクシュアリティは異常ではない』と訴える。人気のない議題に挑むゴールドマンの姿勢は、やがてゲイやレズビアンたちの『声』を拾い上げていく原動力となった。

1919年
米軍が、軍法を改訂。ソドミーを重罪とした。

1920年
ロジャー・ボールドウィンが、『米国自由人権協会(ACLU)』を設立。委員会からの批判を押しのけ、ボールドウィンは協会の目標の一つに『ソドミー法の廃止』を掲げた。

1924年
ヘンリー・ゲルバーが、米国内最初のゲイ団体『SHR人権協会』を設立。しかし、メンバーの妻が警察へ通報し、ゲルバーが逮捕されたことにより、協会の活動は停止に追い込まれた。

1928年
小説家ラドクリフ・ホールが、『The Well of Loneliness』を出版。小説はただちに、レズビアニズムの決定的な声明となった。また、主人公がレズビアンであったことが卑猥とされた結果、イギリスでは即座に発行禁止処分となった。

1934年
ハリウッドの映画制作会社が、ヘイズ・コードを制定。ホモセクシュアリティと関係のある全ての表現を禁止した。

1942年
ジム・ケプナーがサンフランシスコへ移住し、のちに『IGLA (インターナショナル・ゲイ&レズビアン・アーカイブ)』の基礎となるゲイ関連書籍や資料の収集を開始。アーカイブは現在、南カリフォルニア大学に保管されている。ゲイ研究のパイオニアの一人として、ケプナーはのちに、『マタシン協会』と『One Inc』の重要人物となる。

1947年
劇作家テネシー・ウィリアムズが、『欲望という名の電車 』を発表。ゲイ的な感性をブロードウェイに確立させたこの作品によって、ウィリアムスの劇作家としての地位は不動のものとなった。

1948年
キンゼイ・レポート(キンゼイ報告)が発表される。1万人を超える白人男女の性生活を調査したこの研究は、『50%のアメリカ人が、何らかの同性愛的な経験をしており、およそ10人に1人はゲイである』との結論を出した。予想外に広く浸透したキンゼイの考えは、ホモセクシュアリティに『病理』という新たな疑惑をもたらした。

1950年
ジョセフ・マッカーシー上院議員が国務省からゲイを追放したことを受け、ロサンゼルスの音楽教師であり共産党のオーガナイザーであったハリー・ヘイと、ファッションデザイナーのルディ・ガーンライヒが、『マタシン協会』を設立。同性愛者の隠れた人権組織として、『同性愛者は社会的に抑圧されたマイノリティーである』と断言することで、ゲイ・コミュニティ内の思考に革命をもたらした。50年代を通じて、コミュニティや公教育、ヘテロセクシュアルの専門家(社会学者、心理学者、法律、医学の専門家)に支援を頼るといった、“低姿勢な活動”が維持された。この慎重な取り組みが、『ホモファイル運動』と呼ばれる穏健な運動を出現させた。ちなみに『マタシン』とは、中世フランスにおいて春分の道化祭に踊りや儀式を行っていた、独身男性社会に由来している。

1952年
ジョージ・ウィリアム・ジョーゲンセンJrの性別適合手術の記事が、“元GI、ブロンドの美女になる”の見出しと共にニューヨーク・デイリーニュースに掲載される。第二次世界大戦の退役軍人であったジョーゲンセンは、デンマークで手術を行い、新たに“クリスティーン”と名乗るようになった。1953年2月、米国への帰国と同時に、クリスティーンは有名人となり、後に女優として、またナイトクラブ・エンターテイナーとして活躍した。

1953年
アイゼンハワー大統領が、ゲイとレズビアンを全ての連邦職から排除する大統領令を発表。

マタシン協会が、アメリカで初めて、影響力のある同性愛者向け月刊誌『One』の発行を開始。数ヶ月後には、毎月2000冊を売り上げるようになり、またカリフォルニア州外へも広がり始める。米国郵便局が卑猥を理由に1954年11月号の配達を阻むと、『One』側は連邦最高裁まで争い勝訴。雑誌は、1967年まで続いた。

精神分析医エブリン・フッカーが、米国国立精神保健研究所からの助成を受けて、ゲイ男性の心理的適応について研究。ゲイの友人からの助けを借りて研究を行った結果、異性愛者であったフーカーは、『ホモセクシュアルとヘテロセクシュアルの男性の間に相違はない』との結論を出した。

1955年
米国初のレズビアン組織ビリティスの娘たちが、デル・マーティンとフィリス・リオンによって、サンフランシスコで設立される。街のレズビアンバーに代わる選択肢を提供すべく、ソーシャルクラブとしてスタートした『ビリティスの娘たち』は、組織名をフランス人作家ピエール・ルイスの文学作品から引用。作中には、女性間で交わされる愛の詩が含まれる。マタシン協会と同じく、意図的に不明瞭な組織名を持ったことにより、『ビリティスの娘たち』は、組織のメンバーに安全な隠れ蓑を提供することができた。レズビアンの自助努力を支援すると同時に、メンバーたちを孤独から救う役割を果たした。

1956年
雑誌『One』のスタッフ兼ライターを務めていたジム・ケプナーが、『ONE Institute』を共同設立。米国内のゲイたちに、ネガティブな自己像を乗り越えるための献身的な教育を行った。この教育機関は、後に『ゲイ・レズビアン・スタディ』と呼ばれる授業を提供し、ゲイの視点から捉えた歴史、哲学、心理学、社会学、政治学、宗教、アンソロポロジーを扱った。

アフリカ系アメリカ人の作家ジェームズ・ボールドウィンが、『Giovanni’s Room 』を出版。ゲイのテーマをオープンに扱った、初期のメジャーな小説の一つ。

1957年
米軍付きの天文学者フランクリン・カメニーが、ゲイであることを理由に解雇される。以後、カメニーはその人生をゲイの人権運動に捧げることとなる。

1958年
ジョー・チノが、ゲイのボヘミアンな溜まり場であったカフェ・チノで戯曲や詩の朗読などを主催していたことにより、図らずもニューヨークのオフ・オフ・ブロードウェイで運動が始まった。チノの励ましが、ランフォード・ウィルソンロバート・パトリックといった新しいゲイの劇作家を育てた。

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1件のコメント

  1. 時系列、歴史系は、まるっきり、ダメダメです。岩波新書は購入しました。努力して読みます。

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